1854年 | 安政元年 | 黒船、2度目の渡来。幕府に贈った献上品の中にSEWING MACHINEがあった。 |
1860年 | 万延元年 | 「日米修好通商条約」批准のため、遣米使節が咸臨丸にて渡米。帰航の際、中浜万次郎(ジョン万次郎)が手廻しミシンを持ち帰る。 |
1868年 | 慶応4年 明治元年 | 幕府開成所教官・遠藤辰三郎が「西洋新式縫製機械」として、ミシンの教授について通達を出す。 以後、年号が明治に改められる。実際にミシンが使用されるようになったのは明治のはじめ頃である。 ドイツ人・アープルヒ、ドイツ製環縫ミシンを輸入、横浜にて販売。 |
1869年 | 明治2年 | 大和家鉄砲師左国鉄蔵は、東京でドイツミシンの販売に従事しながら、環縫ミシンを製作。国産ミシンの第1号。 |
1871年 | 明治4年 | ドイツから靴ミシンが輸入され、浅草の見世物に出た。 |
1872年 | 明治5年 | 礼服に洋服が採用され、鉄道員・巡査・郵便夫等に制服採用。 |
1877年 | 明治10年 | 生活様式も欧米風になり、ミシンの輸入も増え、ミシン使用による軍服等の大量生産開始。 |
1881年 | 明治14年 | 左国鉄蔵の作ったミシンが内国産勧業博覧会で有功賞状を授与される。 |
1882年 | 明治15年 | 官立学校の生徒の制服始まる。 |
1885年 | 明治18年 | 大阪の島川永太郎、邦人最初のミシンの営業を始める。 東京洋服商工組合が発足。 |
1900年 | 明治33年 | 東京の内田嘉一がミシンを考案、ようやく国産ミシンの気運が高まる |
1904年 | 明治37年 | 陸軍被服庁に正式にミシンが入る。 |
1906年 | 明治39年 | 岡山で足袋製造に動力ミシンを使う、また、九州、京都、大阪などでも動力ミシンが導入され、各地に広まった。 |
1907年 | 明治40年 | 泰利舞子、シンガー縫製女学院を有楽町にオープン。洋服が大流行となる。 ホワイトミシン(アメリカ)の輸入開始。国内において、ドイツ製ミシンとアメリカ製ミシンが猛烈な販売競争となる。 |
1910年 | 明治43年 | 東京の野口卯之助は、ミシンの部品製作会社を作り、単独開業。 |
1911年 | 明治44年 | 東京の小出新次郎は小出式ミシンを発明し、特許を取った。 |
1912年 | 大正元年 | 関根安治がシンガーを真似て、ミシンを製作。 |
1914年 | 大正3年 | 甘利利忠が手縫いの方式と同じ具合に縫える「ころもミシン」を発明。 第1次世界大戦の勃発で、ドイツ製ミシンが輸入停止となり、外国製ミシンはシンガーの全盛となる。 |
1920年 | 大正9年 | 明嵐豊次が、明嵐式和服用裁縫ミシンの発明。特許を取るが、広く実用されることはなかった。 |
1921年 | 大正10年 | パインミシン裁縫機械製作所のミシン工場が設立される。 |
1928年 | 昭和3年 | 東京都ミシン商工業協同組合の前身である東京縫製機械商組合が結成される。 |
1932年 | 昭和7年 | アメリカ式セールスシステムに対する不満と、不況しによる業績悪化により、シンガーの大ストライキ起こる。 多年シンガー傘下にあって、ミシンの販売に活躍してきた人々が、国産ミシンの製造販売に転身を図った。 |
1937年 | 昭和12年 | 関東ミシン製造工業組合が結成される。 |
1938年 | 昭和13年 | 戦時体制の強化、輸出入臨時措置法の施行で、外国製ミシンの輸入が途絶える。 |
1941年 | 昭和16年 | 器工業整備統合の指定業種となって、ミシン業種は続々と転廃業。 |
1945年 | 昭和20年 | 戦後、ミシン業界は、焼けたミシンの修理から徐々に活況を取り戻していく。 戦争によって焼失したミシン:110万台。終戦の年のミシン生産台数:4415台 |